偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

唐揚げのレモン

 


先日、湯河原のとある旅館に宿泊した。3食ご飯を食べられるパックを選んだのだが、最後の昼食にでてきたのは唐揚げ定食だった。正確に言うと唐揚げ3個と海老フライ1個の組み合わせだったのだけれど、私は海老フライがそこまで好きではないので、友人に譲り代わりに唐揚げをもう一つ得た。

 


唐揚げの横には、小さな三日月のような一切れのレモンが慎ましやかに添えられていた。かけたくない人にはその思いを妨害しないように、かけたい人にはどうぞかけてください、とその身を委ねるように。昔なにかのドラマで唐揚げレモン論争についてのセリフがあったのをよく覚えている。しかし正直私はあの台詞には共感できなかった。別に唐揚げの横のレモンはあってもなくてもどちらでも構わない存在だからだ。本当にどちらでもいい。どうでもいい。そこにレモンがあるならかける。ないならないでまったく構わず食べる。どちらでも唐揚げは美味しい。

 


たとえレモンがあっても絶対にかけたくない。レモンがないなら自分で買ってきてでもかけたい。そのように、ゼロの状態から何かを志向し、絶対にこれじゃなきゃだめと拘り何かを選択したことが、今まで私にあっただろうか。そこにレモンがあるからかける。勉強という選択肢があるから進学をする。昔バレエを習っていたから今も趣味でダンスに通う。誘われるからご飯に行く。仕事を頼まれたから引き受ける。

 


ちょっとやだな、とか心の底で薄々思っていても、そこに既に在った選択肢のせいにした方が楽だから、そこにレモンがあるから唐揚げにかけるような感じで、すべてを結局は他人任せにして生きてきた。そこに選択肢がないときには、相手が提案するのを促し待った。それでうまくいかなかったら人に責任を押し付けて恨んで生きてきた。いつまでこんな風に生きるんだろう。柳に雪折れなしとか言うけれど、柔らかいから折れないというのは、ただ他人に任せて生きているから責任から逃れて自由に感じるというだけなのではないだろうか。私はもっと真っ直ぐに、吹雪の中でもモノクロの視界を垂直に貫く針葉樹のように生きていたいのに。

 


自分では何も決められないから、それで他人に任せておきながら「振り回される」と感じる自分が嫌だから、もう知り合い全員に見捨ててほしいとすら思う。全員に見捨てられて、嫌われて、自分の自分に対する罪悪感が正しいものだという確信を得て、そうやって誰にも悲しまれずに死にたい。でもここでも私はやはり「見捨ててほしい」と、他人を主語に据えた願望を抱いていて、この後に及んでどこまでも他人任せな自分に果てしなく嫌気が差す。