「新しい靴買ったらさ、靴擦れで足がずるむけになっちゃって。見てこれ」
ダンスの更衣室で着替えながらそう言って裸足の足を差し出すと、年下の友人は目を丸くして、えっ大丈夫ですか、と言った。
「でもさ、思ったんだよね。合わない靴を履くと靴擦れが起きるみたいに、合わない会社に居続けることで、きっとわたしの心もこんな風になってるんだろうなって」
そう続けると、彼女は神妙な顔をしながら、そうですよ、と呟いた。勝手に自由人仲間だと認識している彼女は、前から「さわさんはもっと自由な職場で好きなことして働いた方がいいですよ」と退職を応援してくれていた一人だ。
彼女と駅の改札で別れてからも、彼女に言った台詞は頭の中をずっと巡っていた。
どんなに履いても馴染まない靴が、血を流してしまう靴があるように、どんなに毎日通っても馴染めず心が呻きつづける職場もある。馴染まない靴を履きつづける必要はなくて、たくさんの靴を試着して楽に履ける靴を探したほうが、ずっと健康だ。
目に見える傷なら痛みの指標となり合わない靴を捨てられるのに、会社ならいつか馴染めるんじゃないかと痛む心を誤魔化して続けようとしてしまうのはどうしてなんだろう。
本当に大事なものは目に見えない。サン=テグジュペリだけではなく、back numberの「水平線」という曲にも、"心は誰にも見えないのだから見えるものより大事にすればいい" という歌詞がある。本当にそうだ。大切であるはずなのに、目に見えないからこそ簡単に忘れてしまって、いつもいつも痛みに気づくときには手遅れになってばかりだ。
「水平線」は本当にいい。生きている限り誰かを傷つけずにはいられないけれど、それでも傷つけずに生きていたいという切実な祈りが込められていて、わたしが常々書きたいと思う「優しい詩」って、こういうもののことをいうんだって思う。
月曜日、寝坊したけれどどうにか会社に行って、上司にTeamsで退職を決断した旨を伝えた。すぐに話し合いが開かれて、スムーズに退職は決まった。家で料理をしながら、「水平線」を聴こう、と思ってapple musicを開いた。優しい歌声と野菜を炒めるじゅうじゅうとした音が頭の中に強く響いて、沸点がきた。野菜を炒め、パスタを茹でながら、声をあげて泣いた。
優しく生きていたい。心にくつずれを起こさずに。