偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

一瞬を生きつづける魔法使い

 

土の匂いが鼻をつき、柔らかい夜風が剥き出しになった首を包む。桜は少しずつその身を開き、花屋ではチューリップがこの世の主役とばかりに堂々と肩を並べる。私は眠りが浅くなって9時間とか寝ても眠たくて、夜になると毎晩不安が心に差し込んでくる。春だなあ。

 

春はaikoが聴きたくなる。まあ私は年がら年中aikoジャンキーなので春夏秋冬aikoを聴いているのだけれど、それでも代表曲である「桜の時」が歌う春という季節は、軽やかに飛び跳ねて歌うaikoのイメージに、ことさら合致する気がしている。

「春が終わり夏が訪れ桜の花びらが朽ち果てても今日と変わらずあたしを愛して」と、桜の儚さを目の当たりにして不安がるaikoも、「躓いて転んでも桜は綺麗だよ」と、咲き誇る桜に素直に励まされる素直なaikoも、どちらも心に染み入ってきて曲を聴くたびに泣きたくなる。本当にaikoのことを神様だと思っている。

 

恋のすごいところは、一瞬が永遠になるところだ。誰かを心から好きだと強く思う瞬間は、私たちが普段生きている時間軸とは別の時間軸にあって、たとえそのひとに会えなくなっても、嫌いになっても、それでもその瞬間の想いは、今もどこかでずっと生きている。それは太陽の光となって桜の花に降り注ぐかもしれないし、雨となって肩を静かに濡らすかもしれない。

夢見る少女みたいなことを語ってしまったけれど、それでも、信仰にも近い想いは、生まれ出た瞬間に私たちの身体を離れて、身体を乗り越えて、まったく別の次元で生きていくものだと、私は信じている。だからこそ、扱い方を間違えれば人を殺すものでもあると思うのだが。

 

aikoはその、別の世界で生きつづけているであろうあのときの一瞬を、これでもかとばかりに繊細な比喩で歌いつづける。aikoの歌を通して私は、あの一瞬の私に出逢い直すことができるのだ。いまも別の時間軸で生きている、あのときの一瞬に。そしてそのどこかで生きている一瞬が、ぺしゃんこになった身体に少しずつ空気を入れてくれる。ラブソングを歌いつづけるaikoがたくさんの人に愛されつづけるのは、一瞬を生きつづける別世界の私に、何度でも出逢い直させてくれるからだ。

やっぱり神様だと思う。あるいは魔法使い。

ananのaiko特集を読みながら、そんなことを思う。とりあえず新作のアルバム「今の二人がお互いを見てる」を聴けるまでは、生きていよう。