偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

近くて遠い、資本主義

 

Ⅰ.

映画『秘密の森の、その向こう』を観た。陳腐な言葉になるけれどものすごく良かった。

淡々としながらもそこにひとの優しさが滲んでいて、雫が落ちて揺れる水面のように、その優しさはゆるやかに広がって私の胸に大きな波紋を残した。すごく静かで感情を揺さぶられる!って作品ではないのに、鑑賞後に外に出たときにその波紋に浸されていることに気づいて泣きたくなるタイプの、良映画。映画鑑賞後に外の風に吹かれてだけで、映画の余韻が滲んで目尻がじんわり熱くなる瞬間がとても好き。

映画自体としては、全然ストーリーは違うけどイメージとしては『西の魔女が死んだ』みたいな雰囲気と言ったらいいだろうか。ファンタジーと現実の境界がゆるむあの感じ。

 

以下、ネタバレありです。

 

映画のおおまかなあらすじとしては、主人公の女の子はおばあちゃんを亡くして、その悲しみを抱えたままおばあちゃん家の遺品整理を手伝い、その家の近くの森の中で小さな女の子と友情を育み、実はそれは昔の母で…という展開。

不思議なのが、この女の子たちはタイムトラベルする特別な道とか無しに、その森を通して過去の世界と現在を行き来すること。さらに現在を生きるパパとも昔のママは普通に会うし、過去を生きるおばあちゃんとも現在の主人公は仲良くなる。そっくりな二人を見ても、パパもおばあちゃんも何も言わない。ただ、let them make a friendshipという感じ(適切な日本語が浮かばなかった)。その適度な温かい放任が、心地いい。

主人公は、亡くなったおばあちゃんに"Au revoir"(さようなら)を言えなかったことを、ずっと悔やんでいる。本当はさようならと言いたかった、そんな切ない願いが、おばあちゃんと通じてあの森に魔法をかけたんじゃないかな。死者の近くで時間が変容することって、なんだかすごく自然なことのように私には思えてしまう。だから最後に車で走り去るおばあちゃんに"Au revoir"って言えた瞬間の場面が、おばあちゃん側はそんなつもりで受け取ってないかもしれないけど、それでもネリー(主人公)の気持ち的には報われたんじゃないかと、ずっと脳裏に焼きついている。

 

そしてそのような経験をしたネリーは、プチ家出から帰ってきたママをマリオンという名で呼び、抱きしめ合う。親と子って、"親子"として生まれてしまったから親子なだけで、他人として生まれていたら友達だったかもしれないんだよね。友達にもなってない可能性もあるけれども。というかそもそも、親子ってめちゃめちゃ他人で、だからこそ寄り添って傷を癒やし合うことができるかも。遠い存在だ、と認識することが、近い人間を愛するためのコツなのかもしれない。

セリーヌ・シアマ監督は、レズビアンフェミニズム映画で名を馳せている新進気鋭の映画監督だけれども、彼女が描こうとしているのはこの「近いからこそ遠い」関係性なのかもしれないと思った。近くにいる、同性である、女同士の遠い関係。

近くにいるのに遠い存在だ、なんて、片想いソングでよく聞くフレーズだけど、この考え方はあらゆる「想い人」「愛する人」に汎用できるのかもしれない。

 

Ⅱ.

映画を観てから、友達とご飯を食べた。狙っていたロシア料理のお店は閉まっていて、渋々駅前のイタリアンのお店に向かった。適当に頼んだフルーツサラダに載っていたチーズのミルキーな食感とオリーブオイルの味の融合が最高だった。

 

最近どの友達と会っても話題になるのが、「一人で生きるには生への重力が軽すぎること」だ。大学を出て、毎日働いて、自分の生活のために生きる。でもその「自分のため」は、頑張るための充分な理由として作用しない。私も私の友達も、比較的自己評価が低く自分なんて、と思う人が多いからか、自分のために頑張ることがただただ苦行なのだ。ただただ自分のために頑張って、楽しい気持ちも忘れて頑張って、何十年もそれを続けて、何になるの?と思ってしまう。「存在の耐えられない軽さ」って、こういうことですか?最近は、だからみんなパートナー見つけて結婚して子供産みたいとか思うのかな、とぼんやりと分かってきた。あるいはペット。他人の命がかかわるような、究極的な必然性を持ってしか、生への重力を確固たるものにすることはできないと思う。

私も友人たちも、資本主義競争社会に組み込まれて生きることを得意とするタイプではない。少なくとも私は、できることなら穏やかに、競争しないで、最低限の労働で、毎日小さな幸せを見つけて、本とか映画とかダンスとか自分のために時間をつかって…という生活がしたい。したいけど、現代日本のキャリアにおいて、そういう生活を求めることは、資本主義強者になれないことと同義だ。自分のために時間を使いたいけど、そういう時間を使うことに罪悪感すら覚えるほどに、資本主義から外れてしまうのはこわい。だから私は、この春から会社員になる。

いまから毎日週5出社資本主義競争社会に組み込まれることに怯えている。内定をもらったときは「内定くれるなら受け入れます!」って気持ちだったし、内定があることは本当に恵まれているけれど、その上でそもそもこの異様なほどの資本主義競争社会で生きなければならないことへの疑問は尽きない。好きなことをしているときだけ地に足がつく私の重力は、四月以降もきちんとはたらいてくれるのだろうか。それが軽くなりすぎたとき、きっと私は風船のように、どこかへ飛んでいってしまう。