偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

愛されるよりも愛したいマジで

 

映画『キャロル』を観てきた。

アマプラでは観たことあったのだけれど、劇場で観るのは初めて。音楽、色味、演出、ファッション、画面に映る全てが余すことなく美しく、格別の映像体験だった…。キャロルとテレーズが赤と緑の服を着てるのとか本当にかわいい。

 

そして画面がかわいい美しいだけではなく、女性/レズビアンを抑圧から解放する力強い映画でもある。

 

主人公であるテレーズは、写真家になる夢を抱きながらデパートの店員をする若い女性。そこに爆美女・離婚調停中・キャロルが客として現れて、テレーズは一目惚れにも近い好意を抱いてしまう。二人は交流を深めていき、嫉妬を覚えたキャロルの夫から、単独親権の申し立てをする。絶望したキャロルはテレーズを誘って旅に出て、二人はその旅の途中で結ばれるのだが…というあらすじだ。

 

日本語版のキャッチコピーは、「このうえなく美しく、このうえなく不幸な人、キャロル。あなたが私を変えた」というものだ。このコピーの通り、この物語における一番の見どころは、主人公であるテレーズの変化にあると思う。

 

テレーズは、「自分から"yes"と"no"を選べない」ことをコンプレックスに感じている、受動的な女性だ。だから写真家の夢を叶えるべくポートフォリオを作りなよと言われてもなあなあにして作らないし、リチャードとの関係をばっさりと切ることもできない。

テレーズと関係を持ったことがバレたときには、「私が断らなかったせいだ…」と自責の念に駆られてしまう。テレーズはキャロルのことが好きで、ずっと欲望を抱いていたのに、それが実現されたことさえ「自分がしたかったから」ではなく「自分が断らなかったから」だと解釈してしまうのだ。

 

同じ「責」の字を使っていても、自責の念を覚えることと、責任を感じることは少し違う。責任を感じてなくても自責することはできる。それは真面目の皮を被ったただの逃避だ。

 

そう、テレーズはずっと逃げている。将来からも、恋人との関係からも、キャロルへの想いからも。キャロルもずっと逃げている。モラハラしてくる夫と夫の家族から。

そんな風にすべてに対して逃避を続けた果てにあるのが、「旅」という本当の逃避だ。しかし逃避の果てに待っているのは途方もない現実だった。この逃避で二人の想いが通じ、それが証拠として残ってしまったのだ。その証拠をもとに、キャロルの夫は単独親権を主張する。

 

ずっと共同親権を主張してきたキャロルは、単独親権を受け入れる。キャロルは同性愛が原因で精神科に連れて行かれ、カウンセリングも受けさせられていたのだ。キャロルは「自分がいない方が娘を幸せにできる」と告げる。差別も含め、それも自分の愛のためなら引き受けると腹を括るのだ。もちろん被差別者が差別を受け入れる必要など1ミリもないが、それを言えるのはわたしが2023年に生きているからだ。

一方テレーズは写真を現像し、憧れの新聞社でも仕事を始め、最後には自分の意思で再会したキャロルを迎えにいく。ラスト、キャロルの居場所へと向かうテレーズの姿は、テレーズが劇中で初めて自分で下した「決断」だったのではないだろうか。

 

受動的であったひとりの若い女性が主体的になること。愛と欲望を、他人任せにせずに自分の責任として選び取ること。自分は選ぶに値する存在なのだと他者から教えてもらうこと。

「愛されるよりも愛したい」ってKinki Kidsは歌っているけれど、あの歌詞は自分で何かの選択をしてその責任を引き受ける主体性のことを指すのだろうと、この映画を観た私はいま考えている。