偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

はじめにあった言を取り返せ

 

映画『ウーマン・トーキング』を観た。

話の大筋は、キリスト教の厳格な村でレイプ事件が日常的に発生するようになり、村の男たちがいない間に女たちが会議を行い、村に残り戦うか他の場所へ逃げるか議論するというもの。女たちが議論を進める様子は、ウルフの「ある協会」に少し似ていた。

 

個人的には、過去に実際に起きた出来事をモデルにしながらも、"いま"をすごく誠実に反映させたアクチュアルな映画だなあと感じた。台詞のひとつひとつがすごく鋭くて、上映中にメモを取れないのを悔しいと思うくらいだった。

特に印象に残っているのは、「私たちは自分の身体についての言葉を持たなかったから、そのことについて語ることができなかった」みたいな台詞だ。村の女性たちは読み書きができないのだけど、そのうえ自身の身体についてはそもそも「言葉」を持っていない。「言葉」を持っていなければ、たとえ性的暴行を受けようと、その被害を他者に語る術がない。そうして暴力は沈黙へと導かれていった。

でもそれって、女性たちが読み書きをできる日本でもそうだと思う。私たちはまともな性教育を受ける機会がほとんどないから、そもそも「言葉」を持たない。HPVワクチンとか、性的同意とか、そういうのが日常に浸透したのって本当にここ数年のことだと思う(環境によってはまだ浸透していない場合もあるだろう)。

 

というか、身体についてだけでなく、「言葉」ってほとんどが、長らく男たちのものだ。

新約聖書の冒頭には「はじめに言があった」と書いてある。この「言」(words)は、ロゴスを意味するとか約束を意味するとか色々な説を読んだことがあるけれど、大多数の日本人は「言葉」として認識しているだろう。

「ウーマン・トーキング」の中でも、神様の性別について登場人物が語る場面があるが、キリスト教ではイエスは男性の姿をしている。その人のために書かれた世界中で読まれる書物に「はじめに言があった」なんて書かれてるんだから、やっぱり言葉は男性たちの所有物として存在しているんだろう、と思ってしまう。

そんな言葉を使って語り、自分たちの未来を決める。この物語自体が、"women talking"というタイトルが、男性中心的な言葉に対する圧倒的な抵抗だ、と思う。

 

劇中で女たちは読み書きができないから、会議の記録を取るのは男性が行う。この男のひとがまた印象的で、「男らしさ」を手放した柔らかい男性なのだ。特に記憶に残ったのは、被害を語る女性の話を聞いて涙を流す場面と、村に残って男たちに教育を施す、と決断する場面。他者に共感することと、暴力ではなく対話の力を信じること。どちらも「男性的」というより、「女性的」である行動だ。

彼は劇中で、コールリッジの発言を引用する。その発言の内容は忘れてしまったのだけど、コールリッジの名を見てわたしが思い出したのは、「偉大な魂は両性具有」という有名な発言だ。この言葉は、ヴァージニア・ウルフが『自分ひとりの部屋』で引用したことで有名だ。男性でありながら、他者である女性の話を聞いて泣き、暴力ではない「力」で未来に希望をもたらそうとする彼は、「女性的な魂」を持った、「両性具有」的な存在だなあと思う。これは、監督からの目配せだったりするだろうか。そうだったらすごくうれしい。

 

村に残留することを選んだ彼は、「男らしさ」が跋扈する共同体で生き残ることができるのだろうか。弱い女たちがいなくなった分、暴力の矛先が彼に向かわないかすごく怖い。ついでに「男らしさ」が評価される会社でびくびく過ごす自分に重なって少し泣けた。でも、彼の教育が村の男たちに真の意味での反省をもたらす日をどうにか信じたい。まあわたしは会社からは逃げるけど。

 

でも、教育って本当に効果があるんだろうか、とも思ってしまう。まあ日本では性とか男らしさとかに関する教育はまったくと言っていいほどされてないから仕方ないことではあるけれど、同志社大学のアメフト部の事件のニュースとか読むと本当にげんなりしてしまう。大学でこれかよ、みたいな。教育ってなんなんだろう。会社にいてもすごく思う。私に向かって「精神科いけよw」って言う子とか、吃音の物真似をする子とかを見ていると、人権に関する感覚って普通の大学までの教育じゃまったく培われないんだなあ、と愕然としてしまう。

 

で、そう考えたときにわたしはやっぱり、最強の教育って物語に触れることなんじゃないかと思ってしまう。物語のなかで他者の人生を生きて、自分では経験し得ない痛みを知ること。他者の声に耳を傾けること。語りうる新しい言葉を得ること。

もちろん物語は、「教育」効果なんてなくてもこの世に生まれた時点で最強で最高なのだけれど。

 

だから、少しでもひとりの多くのひとが「ウーマン・トーキング」に触れてくれたらいいなと思って、私はいまこのブログを書いている。

 

違う宗教を信じる遥か遠い国で昔に起きた事件を通して、登場人物たちは私たちに問いかける。あなたたちは本当に語れていますか、と。その応答として、わたしはこのブログを書いている。私たち女は、そろそろ神から言葉をわたしたちの手に取り戻していいはずだ。もっともっとたくさんの、自分たちの身体や差別に関する言葉を、これからどんどん生み出して、声高に語っていっていい。

はじめにあった言を、わたしたちの手に取り返せ。