偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

冬の静電気

 

 

LINEの返信がない。インスタでメンションした相手からの反応がない。Twitterのリプライがない。きっとどんな人でもだいたいは忘れているだけで、実際に私も忘れて返せないということが多々あるのに、それだけのことに意味を探ってしまう。以前嫌われるようなことをしただろうか。何か良くないことを書いてしまったのだろうか。そもそもこうしてSNSで何かを言おうとしたことがよくなかったのか。

 


スマホでやりとりをすることが苦手である。無機質な文字でのチャットも、声しかない電話も、コミュニケーションを取るには圧倒的に不足したツールだと感じる。どんなに絵文字や顔文字や表現に気を遣おうと、声の温度に気をつけようと、何も伝わらない気がするし、何も伝えられない気がする。相手の身に纏う空気に触れることができないやりとりは、そこでのバックグラウンドを即座に共有できないやりとりは、私の中に微量ではあるが不安を呼び起こす。

その不安は静電気のように身体の中に蓄積され、あるときパチンと弾けるように人と関わるのが酷く怖くなってしまう。怖いなんて言葉で表せるものではなくて、本当に電流のように全身を痛みとなって走り抜けるようになる。髪の毛から指先までが痛覚となり、自分ひとりの真っ暗な部屋で泣いて眠る必要が生じてくる。

 


最近の涼しい風が蝉の死体を転がし、私に静かに秋の訪れを告げる。そのうち冬が訪れる。静電気を溜めてしまうばかりなのは、私の心が冬にあるからなのだろうか。いつかこの胸の気候が和らぎ、草木が芽吹き、動物たちが目を覚ます季節が訪れれば、そもそも静電気なんて溜めなくなって、スマホでのコミュニケーションも恐れず、気にせず行うことができるようになるのだろうか。人との関わりが痛みと化さず、むしろ胸の泉を絶えず湧かすような、歓ばしいものとなるのだろうか。

 


そんな日は来ない気がする。ある事があってから、ずっと真冬の凍えるような吹雪の中にひとり立ち尽くしているような気がする。誰のせいでもなく仕方のないことで私が努力すれば解決することなのに、私はこの冬景色の中から動けない。

 

スマホ越しじゃなくて、物理的にあなたと会いたい。触ってもらえなくても、近くに人にいてもらうことで、大丈夫だっていう冬の突き抜けた青空のような確信がほしい。

パチパチと耳元で音が鳴る。