偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

過去は降る

 

まだまだ長く生きたなどと言えるような年ではないが、最近、過去の思い出に支えられているなあ…とじんわり涙することが多い。私も大人になったということだろうか。

 

たとえば先日。浅草付近をサイクリングで走っていると、道を間違えて浅草寺前の人混みに巻き込まれてしまった。自転車を引いて歩く。そこで現れたのは、20歳ごろに月に一回は散歩した、よく知っている道のりだった。

大学1-2年のころ、ESS(英語サークル)のガイドセクションに所属していた。ガイドセクションとは今思うとめちゃめちゃ度胸のあるトンデモ集団で、週末に浅草や明治神宮皇居東御苑なんかに出向き、そこらへんを歩いている外国人を突撃し、「私たちは英語を学習している大学生なんですけど、よかったら英語で案内させてもらえませんか?」などと言うのである。通った道はまさに、週末ガイドでしょっちゅう訪れた場所だった。お店の景観は、当時からだいぶ変わってしまっていたけれど。

よくもまあこんな怪しい集団にお付き合いいただいたものだと思う。私が旅行先で同じような人たちに会ったとき、彼らと同じように笑顔で"of course, sure!"などと言える自信はあまりない。

それでも私たちは、原稿を頭に叩き込んで、同じESSに所属する人たちとチームを組んで、毎週毎週色んな外国人を案内させてもらっていた。プロではないし、英語も拙かっただろうけれど、私はその活動に充実感を覚えていたし、すごく楽しいと言い切れるような新鮮な日々だった。

 


すごいと思ったのは、その道を歩く数分の間に、その時の楽しかった記憶ー具体的な記憶というよりは、漠然とした当時の、観光客を見つけるまでの高揚感、必死に外国語を紡いでコミュニケートする喜び、笑って"see you!"と別れた後の達成感、それらがごちゃ混ぜになったただ曖昧な幸福感が、4月の晴れた日に降り注ぐ桜の花びらみたいに、ただひらひらと光の粒になって私に降りかかるように感じたのだ、喜びだけはその日の鮮度のままで。

どこの国のどんな人を案内したとか何も覚えていないし、サークルのメンバーも名前すら思い出せないような人もいるのに、それでも、ただ楽しかったという感覚だけが胸のなかで膨らんで、指先の方まで静かに私を満たしていく、こんなことがあるんだと思った。

 

私は極端な性格で、一つシミがつくとそのハンカチを「汚れたハンカチ」だと思ってしまうように、一度自分を不幸だと感じることが起きると、自分はまるで生まれてから死ぬまで一生涯ずっと不幸で楽しいことなんて何もない人生なんだ、と考えてしまいがちである。この二年、居場所選びをすっかり間違えてしまった私は、楽しかった出来事なんて前世のように遠い出来事のように感じていた。それらは、前世じゃなく、確かに今世の私に起こった出来事だった。私の人生にも確かに楽しい瞬間はあった。そのことを認識できたことが、ただただ嬉しかったのだ。ああ生きててよかった、ほんの数分、そんなことを考えながら、胸を振るわせながら自転車を引いて歩いていた。

 

ここ数年の私はてんでだめで、毎日体調が悪く、思考も鬱々として何もできずに寝ているだけの日も多かった。そんな私はいつも過去の自分と比べては、あの頃はあんなに動けたのにどうして、と今の自分を呪っていた。しかし過去は自分を呪うために存在するのではなく、自分を祝福するために存在するものなのだろう。過去はよかったのにどうして、と思うのではなく、過去がよかったのだから私はこれからも大丈夫だ、と思うために。夜空を飽きるほどに見つめていたら自然と朝が来るように、後ろを振り返ることで気づいたら前を向けるときもある。そして私は未来の自分の一瞬の力となるために、おぼつかない今日を懸命に生きるのだ。