偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

薄紙一枚分の約束

 

会社に入って苦しいと感じることはたくさんあったけれど、ひとつだけ、とても良いこともあった。高校の同級生と再会できたのだ。わたしは彼女もこの会社を受けているなんて何にも知らなくて、本当に偶然、入社式の日に遭遇したのだった。わたしは学部5年+院2年を経ていて、周りのストレート新卒の子たちよりも3年も遅れて入社して少し寂しかったから、同じような経歴を持つ彼女と再会できたのは本当に僥倖だった。

 

そんな彼女とご飯に行った。空白の7年間を埋めるように…というよりも、そんな7年は存在しなかったかのように、会話はテンポよく弾ける。同じ環境で六年を過ごしたことはとても大きい。わたしたちは同じ肥料を吸収して育ったそれぞれ別々の花なのだと思う。お互いの個性を愛おしく思いつつ、ひととして大切なことを暗黙に共有しながら、適切だと思うコミュニケーションを紡いでいく心地よさ。その温度が同じであることの安心感はひとしおだ。とりわけ、会社で違和感を覚えたコミュニケーションについて話すと、「それは不快だよ、さわちゃん悪くないよ」と断じてくれて、固まっていた心が蝋燭のようにゆるやかな熱で溶けていくのを感じた。

 

25歳という人生の岐路を迎える年齢に差し掛かった私たちの話題は、自然と結婚や一人暮らしといったライフプラン的なものへと向かってゆく。

「なんかさ、結婚とかもうちら無理じゃない?」「さわちゃん普通に『来週から別居するわ!無理だった!笑』とか言いそうだよね」「うわやってそう〜黙って突然離婚しそうわたし」「じゃあ10年後くらいに離婚報告のご飯会絶対しようね」「めっちゃしたい〜!」

そんな会話を交わしながら、わたしはこの日のことを絶対忘れないだろうな、と思った。この「離婚報告のご飯会」なる約束は、薄紙一枚分の軽い約束にすぎないけれど、それでもこういう口約束が心の奥の部分をいつまでも照らしつづけたりすることを、わたしは経験上知っている。

 

この世界には敢えて選択をせずともただ生きていけるひとと、敢えて「生」を選択しつづけないと生きることを手放してしまいそうな瞬間が日常的に訪れるひとがいる。心根が腐っているわたしはもうずっと後者で、気を抜くとすぐに「ああ、生きるのしんどいなあ」と思ってしまう。

最近読んだ朝井リョウの『正欲』は、まさにそういった生を手放しかねない人たちが手を取り合って生きていく話だった。作品のなかで、自分の根幹をなす価値観は「宗教」にたとえられ、その「宗教」が重なるひとと出会うことで死を選ばずに済むという一説がある。

 

"そうして体内に築かれた宗教が重なる誰かと出会ったとき、人は、その誰かの生存を祈る。心身の健康を願う。それは、生きていてほしいという思いを飛び越えたところにある、その人が自殺を選ぶような世界では困る、という自己都合だ。"

"体内の宗教が同じ人の死は、当人の死のみに収束しない。その死は、同じ宗教の他者を殺すことでもある。翻って、宗教が同じ人が心身共に健康で生きているというだけで、手放しそうになる明日を手繰り寄せられるときがある。その人が生きている世界なら自分も生きていけるのかもしれないと、そう信じられる瞬間が確かにある。"

(朝井リョウ『正欲』新潮文庫,2023, p.305-306)

 

7年のときを経て出会い直せた彼女を、わたしは勝手に「同じ宗教」のひとだと感じている。留学とか院とか、似たような経験を経て近しい価値観を積み重ねてきたひと。そんな彼女と離婚報告しようねーと約束してしまったのだから、お互いそれまでは生きていようと約束してしまったのだから、明日からもわたしは自分の人生を進めていくしかない。会社にいた期間は短かったし辛かったけれど、それでもわたしはこの邂逅だけで、この会社に入った意味は充分にあると思うのだ。