偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

カップラーメンチーズカレー味

 

職場にお歳暮とかのお菓子を置くスペースがあるのだけれど、そこに、ペヤングの焼きそばが二つ置かれていた。「ご自由にどうぞ!」という付箋が貼ってある。先輩が家用にペヤングを買いすぎてしまい、余った分を持ってきてくれたようだ。

わたしの家はみんなカップ麺が好きで、電子レンジの上には常に新作のカップ麺がストックしてある。SNSにそこまで通じているわけではない父がなぜかいつも一番嗅覚が敏感で、常に発売日とかに新作を買ってくる。それを私と妹の娘二人で奪って食べている。

そんな家庭に育ってきたので、今回のペヤングもいただくことにした。今日の夜ご飯に食べようかな。普通にご飯があっても、カップ麺は別腹だ。

 

いつからカップ麺を好きになったかは明確には覚えていないのだけれど、少なくとも高校三年生のときには、カップ麺はわたしにとって身近な存在だった。高三の受験生の夏、深夜に泣きながらチーズカレー味のカップラーメンを食べたことを覚えているからだ。

わたしはその夏塾に毎日通っていて、その塾には高校の同級生のAちゃんもいた。わたしは国際系の大学に行きたくて、Aちゃんにははっきりと志望校は聞いたことはないけれどたぶん似たような志望のはずで、同じような目標がある友達がいるってすごく心強いな、と思っていた。

そんなAちゃんが、ロビーでスタッフと面談をしていた。近くを通って聞こえたのは、推薦が決まったから退塾する、という内容だった。

 

裏切られた、とおもった。わたしの第一志望には推薦がなくて、わたしは最後まで受験をするしかなかったから。「最後までがんばろうね」って、この前話したのに。水面下で推薦の話を進めていたなんて。その推薦は、わたしの成績だったら取れるところでもあったので、「妥協」したように見えた彼女を尚更許すことができなかった。いま思うと、それは「妥協」ではなく「選択」だったのに。

18歳は、若い。若いから、自分と他人を区別するのが難しい。みんな頑張っているのに。わたし頑張っているのに。推薦で進学するひとは、みんなが頑張る受験を放棄したずるいひと。受験すればもっといいところに受かるかもしれないのに、努力を諦めたダサいひと。受験勉強に邁進する自分を正当化するために、わたしは彼女たちを「妥協したダサいひと」と考えるようにしていた。

なのに。ダサいのに、なんでこんなに悔しくて苦しいんだろう。

 

自習室が閉まる9時まで勉強をして、いつも通り帰路に着く。親にLINEで彼女への罵詈雑言をぶちまけて、涙をこらえながら電車に乗る。勉強と「裏切り」で二重に疲弊していたわたしには、最寄りの駅前に燦然と輝くスーパーの看板はとても眩しくて、光に吸い寄せられる虫のように中へと入っていった。裏切られた自分が惨めで情けなくて、もうなにかすごく身体に悪いものを食べないと気が済まない。そう思ったわたしは、まっすぐにカップ麺コーナーに向かって、カップラーメンのチーズカレー味を2つ、手に取った。

あり得ないあり得ない味方ヅラして裏切ってふざけんな、叫びながら涙を流しながら3分を待ち、貪るようにカップラーメンを食べた。空になったらまたすぐにお湯を沸かし、もう一つのカップラーメンを開けて、また3分間罵詈雑言を放ち、涙にまみれながらカップラーメンを食べた。

 

カップ麺売り場に立つたびに、あの夜のことを思い出す。あれから8年が経った。その間にわたしは、第一志望の大学に入学して、憧れていた国に留学して、学びたかった分野で大学院に入って、大好きな本に携われる仕事に就いた。いろんな人に出会って、泣いたり絶望したり、死にたくなったりもしたけれど、なんとか今日を生きている。

なんというか、遠くまで来たなぁ、と思う。

いまはお金があるから、許せない!と思うようなことがあったなら、マッサージに行くなり化粧品や服を爆買いするなり、高級な料理を食べるなり、もっと別の方法で鬱憤を解消すると思う。深夜に泣きながらカップラーメンチーズカレー味を2個連続で食べることは、きっともう無い。でも、あの夜があったからこそ、今のわたしがあるとも思うのだ。

 

今夜のペヤングは、きっと笑いながら妹と分け合うだろう。

愛されるよりも愛したいマジで

 

映画『キャロル』を観てきた。

アマプラでは観たことあったのだけれど、劇場で観るのは初めて。音楽、色味、演出、ファッション、画面に映る全てが余すことなく美しく、格別の映像体験だった…。キャロルとテレーズが赤と緑の服を着てるのとか本当にかわいい。

 

そして画面がかわいい美しいだけではなく、女性/レズビアンを抑圧から解放する力強い映画でもある。

 

主人公であるテレーズは、写真家になる夢を抱きながらデパートの店員をする若い女性。そこに爆美女・離婚調停中・キャロルが客として現れて、テレーズは一目惚れにも近い好意を抱いてしまう。二人は交流を深めていき、嫉妬を覚えたキャロルの夫から、単独親権の申し立てをする。絶望したキャロルはテレーズを誘って旅に出て、二人はその旅の途中で結ばれるのだが…というあらすじだ。

 

日本語版のキャッチコピーは、「このうえなく美しく、このうえなく不幸な人、キャロル。あなたが私を変えた」というものだ。このコピーの通り、この物語における一番の見どころは、主人公であるテレーズの変化にあると思う。

 

テレーズは、「自分から"yes"と"no"を選べない」ことをコンプレックスに感じている、受動的な女性だ。だから写真家の夢を叶えるべくポートフォリオを作りなよと言われてもなあなあにして作らないし、リチャードとの関係をばっさりと切ることもできない。

テレーズと関係を持ったことがバレたときには、「私が断らなかったせいだ…」と自責の念に駆られてしまう。テレーズはキャロルのことが好きで、ずっと欲望を抱いていたのに、それが実現されたことさえ「自分がしたかったから」ではなく「自分が断らなかったから」だと解釈してしまうのだ。

 

同じ「責」の字を使っていても、自責の念を覚えることと、責任を感じることは少し違う。責任を感じてなくても自責することはできる。それは真面目の皮を被ったただの逃避だ。

 

そう、テレーズはずっと逃げている。将来からも、恋人との関係からも、キャロルへの想いからも。キャロルもずっと逃げている。モラハラしてくる夫と夫の家族から。

そんな風にすべてに対して逃避を続けた果てにあるのが、「旅」という本当の逃避だ。しかし逃避の果てに待っているのは途方もない現実だった。この逃避で二人の想いが通じ、それが証拠として残ってしまったのだ。その証拠をもとに、キャロルの夫は単独親権を主張する。

 

ずっと共同親権を主張してきたキャロルは、単独親権を受け入れる。キャロルは同性愛が原因で精神科に連れて行かれ、カウンセリングも受けさせられていたのだ。キャロルは「自分がいない方が娘を幸せにできる」と告げる。差別も含め、それも自分の愛のためなら引き受けると腹を括るのだ。もちろん被差別者が差別を受け入れる必要など1ミリもないが、それを言えるのはわたしが2023年に生きているからだ。

一方テレーズは写真を現像し、憧れの新聞社でも仕事を始め、最後には自分の意思で再会したキャロルを迎えにいく。ラスト、キャロルの居場所へと向かうテレーズの姿は、テレーズが劇中で初めて自分で下した「決断」だったのではないだろうか。

 

受動的であったひとりの若い女性が主体的になること。愛と欲望を、他人任せにせずに自分の責任として選び取ること。自分は選ぶに値する存在なのだと他者から教えてもらうこと。

「愛されるよりも愛したい」ってKinki Kidsは歌っているけれど、あの歌詞は自分で何かの選択をしてその責任を引き受ける主体性のことを指すのだろうと、この映画を観た私はいま考えている。

恋と恋愛の脱構築

 

Twitterのフォロワーがめちゃ増えたので、マシュマロを久しぶりに募集してみたところ、こんなマシュマロをいただきました。すごくわかる!と思いながら読ませてもらいました。ゆっくり解答していきたいと思います。

 

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最近、自分は人に恋愛感情をあまり抱かないということに気付き、そういう自分もある程度認めることが出来るようになり、以前よりは気持ちも安定してきたと感じていたのですが、ふとした瞬間に、自分の友達や知り合いの殆どに恋人がいたり、恋愛をしていたりするように見えて(実際は「殆ど」ではないと思うのですが)、やっぱり寂しいなあと思ってしまうことが時々あります。(実は数年ぶりにやっと恋愛的に好きになることが出来た人に最近振られてしまい、それで寂しいと余計に思ってしまうというのもあります😭) 恋愛を(あまり)しない、という自分を大事にしようと思いつつもなんだかんだで恋愛に憧れたり、「恋愛はしたほうが良い、するのが普通」というような考えに引っ張られてしまう自分がいて、矛盾を感じる日々です。このような矛盾を無くすにはどうすれば良いでしょうか。もう少し時間をかけて自分について考えるべきでしょうか・・・。

 

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わたしも好きなひとがなかなかできない&できてもなかなか両想いになれない星のもとに生まれてしまった人間なので、わかるなあ…と思いながら読んでしまいました。わたしも、好きじゃないひとと恋愛するのは腑に落ちないけれど、でもこのままひとりでいいのかな、と立ち止まっては悶々と悩む日々を送っています。

 

でも最近おもうのは、恋愛をする能力と、恋をする能力は別なんじゃないかということです。世間では、恋の延長が恋愛で、恋するひと同士が恋人同士になっているという印象があるけれど、でも恋愛関係のはじまりって、恋に限らないと思うんです。情の場合もあれば、友情の場合もあれば、穏やかな愛情もあれば、性欲の場合もあるよなあと、周りを見ていて考えます。社会規範的にした方がいいことになっているのはたしかに恋愛ですけど、恋は別にそこに必須な要素じゃないんですよね。マロ主さんが憧れているのは「恋の発展形としての恋愛」で、必ずしも「恋愛」を指しているわけではないんじゃないでしょうか(違ったらごめんなさい)。そこをしっかり区別することで、「恋愛」への憧れと自分の感覚の矛盾は、少し整理されるような気がしています。

 

わたしは恋という感情の過激な信者なので、正直、恋スタートではない恋愛関係についてはあまり良い感情を持っておらず(笑)、だからこそ自分が恋愛をするのが果てしなく難しいことのように感じるのではないかと思っています。

し、恋愛関係に必ずしも恋が付随するものではないとするならば、恋ができるのはある種の才能ということで、それがしかもうまくいかないものでも相手に惚れることができるというのは、稀有な才能だと思います。誰かを想うことができるってすごいことです。その一瞬の自分の想いに自分自身が照らされて生きていける瞬間があるから。

社会規範的な「恋愛」は苦手かもしれないけれど、その分他のひとがしていないことをわたしはしているんだ!と思えば少しは楽になる…かもしれないと思うのですが、いかがでしょうか。

 

でもやっぱりそれでも、この社会の基本が男女ペアの「恋愛(※必ずしも恋ではない)」の発展形の「結婚」であるからには生きていく上での不安は付き纏うし、たとえそういう「結婚」をしなくても、パートナーがいた方が生きるには心強いよなあと悩むこともあると思います。生々しい話をすると、私は最近自分があまり金を稼ぐ能力がなさそうなことに気づき、生存戦略として結婚が必要なのでは…?という疑念が芽生えはじめたところです。恋過激派としてはやはり結婚も恋をした相手としたいので、なかなか難しいところです。

 

恋愛感情を持たない相手と「結婚」ではない形で同士として手を組んで生きていけたらいいけれど、そうやって生きるにはロールモデルがいなさすぎるんですよね。目の前に存在しないものを、自分たちで一から組み立てるのってすごく難しい。もしかしたらこの世界にはそういう二人組/共同体がすでにひっそりと存在しているかもしれないけれど、目立つところにはあまりいないように思います。だからやっぱりそのことにはこれからも悩みつづけるだろうし、ここで明確にこう生きれば良いと思う!みたいな答えを出すこともできません。でも私はそういうときこそ、物語の力を借りればいいんじゃないかと思っています。というわけで、相談者さんにおすすめの物語は、

 

・今夜すきやきだよ(ドラマ)

アロマンティックの女性と恋愛体質の女性が同居生活を送る話です。恋愛と同性間の強い絆をどう両立させるか、ヒントをくれるお話です。

・一心同体だった

こちらは割と現実を見せつけてくる系ではあるのですが、恋愛感情を媒介しない女たちが仲良く生きてゆく難しさが描かれた短編集です。

・白いしるし

恋過激派のわたしが大絶賛する、これぞ恋!という感情が閉じ込められた小説です。失恋の傷は簡単には癒えないと思いますが、この本があれば大丈夫です。

 

薄紙一枚分の約束

 

会社に入って苦しいと感じることはたくさんあったけれど、ひとつだけ、とても良いこともあった。高校の同級生と再会できたのだ。わたしは彼女もこの会社を受けているなんて何にも知らなくて、本当に偶然、入社式の日に遭遇したのだった。わたしは学部5年+院2年を経ていて、周りのストレート新卒の子たちよりも3年も遅れて入社して少し寂しかったから、同じような経歴を持つ彼女と再会できたのは本当に僥倖だった。

 

そんな彼女とご飯に行った。空白の7年間を埋めるように…というよりも、そんな7年は存在しなかったかのように、会話はテンポよく弾ける。同じ環境で六年を過ごしたことはとても大きい。わたしたちは同じ肥料を吸収して育ったそれぞれ別々の花なのだと思う。お互いの個性を愛おしく思いつつ、ひととして大切なことを暗黙に共有しながら、適切だと思うコミュニケーションを紡いでいく心地よさ。その温度が同じであることの安心感はひとしおだ。とりわけ、会社で違和感を覚えたコミュニケーションについて話すと、「それは不快だよ、さわちゃん悪くないよ」と断じてくれて、固まっていた心が蝋燭のようにゆるやかな熱で溶けていくのを感じた。

 

25歳という人生の岐路を迎える年齢に差し掛かった私たちの話題は、自然と結婚や一人暮らしといったライフプラン的なものへと向かってゆく。

「なんかさ、結婚とかもうちら無理じゃない?」「さわちゃん普通に『来週から別居するわ!無理だった!笑』とか言いそうだよね」「うわやってそう〜黙って突然離婚しそうわたし」「じゃあ10年後くらいに離婚報告のご飯会絶対しようね」「めっちゃしたい〜!」

そんな会話を交わしながら、わたしはこの日のことを絶対忘れないだろうな、と思った。この「離婚報告のご飯会」なる約束は、薄紙一枚分の軽い約束にすぎないけれど、それでもこういう口約束が心の奥の部分をいつまでも照らしつづけたりすることを、わたしは経験上知っている。

 

この世界には敢えて選択をせずともただ生きていけるひとと、敢えて「生」を選択しつづけないと生きることを手放してしまいそうな瞬間が日常的に訪れるひとがいる。心根が腐っているわたしはもうずっと後者で、気を抜くとすぐに「ああ、生きるのしんどいなあ」と思ってしまう。

最近読んだ朝井リョウの『正欲』は、まさにそういった生を手放しかねない人たちが手を取り合って生きていく話だった。作品のなかで、自分の根幹をなす価値観は「宗教」にたとえられ、その「宗教」が重なるひとと出会うことで死を選ばずに済むという一説がある。

 

"そうして体内に築かれた宗教が重なる誰かと出会ったとき、人は、その誰かの生存を祈る。心身の健康を願う。それは、生きていてほしいという思いを飛び越えたところにある、その人が自殺を選ぶような世界では困る、という自己都合だ。"

"体内の宗教が同じ人の死は、当人の死のみに収束しない。その死は、同じ宗教の他者を殺すことでもある。翻って、宗教が同じ人が心身共に健康で生きているというだけで、手放しそうになる明日を手繰り寄せられるときがある。その人が生きている世界なら自分も生きていけるのかもしれないと、そう信じられる瞬間が確かにある。"

(朝井リョウ『正欲』新潮文庫,2023, p.305-306)

 

7年のときを経て出会い直せた彼女を、わたしは勝手に「同じ宗教」のひとだと感じている。留学とか院とか、似たような経験を経て近しい価値観を積み重ねてきたひと。そんな彼女と離婚報告しようねーと約束してしまったのだから、お互いそれまでは生きていようと約束してしまったのだから、明日からもわたしは自分の人生を進めていくしかない。会社にいた期間は短かったし辛かったけれど、それでもわたしはこの邂逅だけで、この会社に入った意味は充分にあると思うのだ。

 

くつずれ

 

「新しい靴買ったらさ、靴擦れで足がずるむけになっちゃって。見てこれ」

ダンスの更衣室で着替えながらそう言って裸足の足を差し出すと、年下の友人は目を丸くして、えっ大丈夫ですか、と言った。

「でもさ、思ったんだよね。合わない靴を履くと靴擦れが起きるみたいに、合わない会社に居続けることで、きっとわたしの心もこんな風になってるんだろうなって」

そう続けると、彼女は神妙な顔をしながら、そうですよ、と呟いた。勝手に自由人仲間だと認識している彼女は、前から「さわさんはもっと自由な職場で好きなことして働いた方がいいですよ」と退職を応援してくれていた一人だ。

彼女と駅の改札で別れてからも、彼女に言った台詞は頭の中をずっと巡っていた。

どんなに履いても馴染まない靴が、血を流してしまう靴があるように、どんなに毎日通っても馴染めず心が呻きつづける職場もある。馴染まない靴を履きつづける必要はなくて、たくさんの靴を試着して楽に履ける靴を探したほうが、ずっと健康だ。

目に見える傷なら痛みの指標となり合わない靴を捨てられるのに、会社ならいつか馴染めるんじゃないかと痛む心を誤魔化して続けようとしてしまうのはどうしてなんだろう。

本当に大事なものは目に見えない。サン=テグジュペリだけではなく、back numberの「水平線」という曲にも、"心は誰にも見えないのだから見えるものより大事にすればいい" という歌詞がある。本当にそうだ。大切であるはずなのに、目に見えないからこそ簡単に忘れてしまって、いつもいつも痛みに気づくときには手遅れになってばかりだ。

「水平線」は本当にいい。生きている限り誰かを傷つけずにはいられないけれど、それでも傷つけずに生きていたいという切実な祈りが込められていて、わたしが常々書きたいと思う「優しい詩」って、こういうもののことをいうんだって思う。

 

月曜日、寝坊したけれどどうにか会社に行って、上司にTeamsで退職を決断した旨を伝えた。すぐに話し合いが開かれて、スムーズに退職は決まった。家で料理をしながら、「水平線」を聴こう、と思ってapple musicを開いた。優しい歌声と野菜を炒めるじゅうじゅうとした音が頭の中に強く響いて、沸点がきた。野菜を炒め、パスタを茹でながら、声をあげて泣いた。

 

優しく生きていたい。心にくつずれを起こさずに。

 

はじめにあった言を取り返せ

 

映画『ウーマン・トーキング』を観た。

話の大筋は、キリスト教の厳格な村でレイプ事件が日常的に発生するようになり、村の男たちがいない間に女たちが会議を行い、村に残り戦うか他の場所へ逃げるか議論するというもの。女たちが議論を進める様子は、ウルフの「ある協会」に少し似ていた。

 

個人的には、過去に実際に起きた出来事をモデルにしながらも、"いま"をすごく誠実に反映させたアクチュアルな映画だなあと感じた。台詞のひとつひとつがすごく鋭くて、上映中にメモを取れないのを悔しいと思うくらいだった。

特に印象に残っているのは、「私たちは自分の身体についての言葉を持たなかったから、そのことについて語ることができなかった」みたいな台詞だ。村の女性たちは読み書きができないのだけど、そのうえ自身の身体についてはそもそも「言葉」を持っていない。「言葉」を持っていなければ、たとえ性的暴行を受けようと、その被害を他者に語る術がない。そうして暴力は沈黙へと導かれていった。

でもそれって、女性たちが読み書きをできる日本でもそうだと思う。私たちはまともな性教育を受ける機会がほとんどないから、そもそも「言葉」を持たない。HPVワクチンとか、性的同意とか、そういうのが日常に浸透したのって本当にここ数年のことだと思う(環境によってはまだ浸透していない場合もあるだろう)。

 

というか、身体についてだけでなく、「言葉」ってほとんどが、長らく男たちのものだ。

新約聖書の冒頭には「はじめに言があった」と書いてある。この「言」(words)は、ロゴスを意味するとか約束を意味するとか色々な説を読んだことがあるけれど、大多数の日本人は「言葉」として認識しているだろう。

「ウーマン・トーキング」の中でも、神様の性別について登場人物が語る場面があるが、キリスト教ではイエスは男性の姿をしている。その人のために書かれた世界中で読まれる書物に「はじめに言があった」なんて書かれてるんだから、やっぱり言葉は男性たちの所有物として存在しているんだろう、と思ってしまう。

そんな言葉を使って語り、自分たちの未来を決める。この物語自体が、"women talking"というタイトルが、男性中心的な言葉に対する圧倒的な抵抗だ、と思う。

 

劇中で女たちは読み書きができないから、会議の記録を取るのは男性が行う。この男のひとがまた印象的で、「男らしさ」を手放した柔らかい男性なのだ。特に記憶に残ったのは、被害を語る女性の話を聞いて涙を流す場面と、村に残って男たちに教育を施す、と決断する場面。他者に共感することと、暴力ではなく対話の力を信じること。どちらも「男性的」というより、「女性的」である行動だ。

彼は劇中で、コールリッジの発言を引用する。その発言の内容は忘れてしまったのだけど、コールリッジの名を見てわたしが思い出したのは、「偉大な魂は両性具有」という有名な発言だ。この言葉は、ヴァージニア・ウルフが『自分ひとりの部屋』で引用したことで有名だ。男性でありながら、他者である女性の話を聞いて泣き、暴力ではない「力」で未来に希望をもたらそうとする彼は、「女性的な魂」を持った、「両性具有」的な存在だなあと思う。これは、監督からの目配せだったりするだろうか。そうだったらすごくうれしい。

 

村に残留することを選んだ彼は、「男らしさ」が跋扈する共同体で生き残ることができるのだろうか。弱い女たちがいなくなった分、暴力の矛先が彼に向かわないかすごく怖い。ついでに「男らしさ」が評価される会社でびくびく過ごす自分に重なって少し泣けた。でも、彼の教育が村の男たちに真の意味での反省をもたらす日をどうにか信じたい。まあわたしは会社からは逃げるけど。

 

でも、教育って本当に効果があるんだろうか、とも思ってしまう。まあ日本では性とか男らしさとかに関する教育はまったくと言っていいほどされてないから仕方ないことではあるけれど、同志社大学のアメフト部の事件のニュースとか読むと本当にげんなりしてしまう。大学でこれかよ、みたいな。教育ってなんなんだろう。会社にいてもすごく思う。私に向かって「精神科いけよw」って言う子とか、吃音の物真似をする子とかを見ていると、人権に関する感覚って普通の大学までの教育じゃまったく培われないんだなあ、と愕然としてしまう。

 

で、そう考えたときにわたしはやっぱり、最強の教育って物語に触れることなんじゃないかと思ってしまう。物語のなかで他者の人生を生きて、自分では経験し得ない痛みを知ること。他者の声に耳を傾けること。語りうる新しい言葉を得ること。

もちろん物語は、「教育」効果なんてなくてもこの世に生まれた時点で最強で最高なのだけれど。

 

だから、少しでもひとりの多くのひとが「ウーマン・トーキング」に触れてくれたらいいなと思って、私はいまこのブログを書いている。

 

違う宗教を信じる遥か遠い国で昔に起きた事件を通して、登場人物たちは私たちに問いかける。あなたたちは本当に語れていますか、と。その応答として、わたしはこのブログを書いている。私たち女は、そろそろ神から言葉をわたしたちの手に取り戻していいはずだ。もっともっとたくさんの、自分たちの身体や差別に関する言葉を、これからどんどん生み出して、声高に語っていっていい。

はじめにあった言を、わたしたちの手に取り返せ。

 

過去は降る

 

まだまだ長く生きたなどと言えるような年ではないが、最近、過去の思い出に支えられているなあ…とじんわり涙することが多い。私も大人になったということだろうか。

 

たとえば先日。浅草付近をサイクリングで走っていると、道を間違えて浅草寺前の人混みに巻き込まれてしまった。自転車を引いて歩く。そこで現れたのは、20歳ごろに月に一回は散歩した、よく知っている道のりだった。

大学1-2年のころ、ESS(英語サークル)のガイドセクションに所属していた。ガイドセクションとは今思うとめちゃめちゃ度胸のあるトンデモ集団で、週末に浅草や明治神宮皇居東御苑なんかに出向き、そこらへんを歩いている外国人を突撃し、「私たちは英語を学習している大学生なんですけど、よかったら英語で案内させてもらえませんか?」などと言うのである。通った道はまさに、週末ガイドでしょっちゅう訪れた場所だった。お店の景観は、当時からだいぶ変わってしまっていたけれど。

よくもまあこんな怪しい集団にお付き合いいただいたものだと思う。私が旅行先で同じような人たちに会ったとき、彼らと同じように笑顔で"of course, sure!"などと言える自信はあまりない。

それでも私たちは、原稿を頭に叩き込んで、同じESSに所属する人たちとチームを組んで、毎週毎週色んな外国人を案内させてもらっていた。プロではないし、英語も拙かっただろうけれど、私はその活動に充実感を覚えていたし、すごく楽しいと言い切れるような新鮮な日々だった。

 


すごいと思ったのは、その道を歩く数分の間に、その時の楽しかった記憶ー具体的な記憶というよりは、漠然とした当時の、観光客を見つけるまでの高揚感、必死に外国語を紡いでコミュニケートする喜び、笑って"see you!"と別れた後の達成感、それらがごちゃ混ぜになったただ曖昧な幸福感が、4月の晴れた日に降り注ぐ桜の花びらみたいに、ただひらひらと光の粒になって私に降りかかるように感じたのだ、喜びだけはその日の鮮度のままで。

どこの国のどんな人を案内したとか何も覚えていないし、サークルのメンバーも名前すら思い出せないような人もいるのに、それでも、ただ楽しかったという感覚だけが胸のなかで膨らんで、指先の方まで静かに私を満たしていく、こんなことがあるんだと思った。

 

私は極端な性格で、一つシミがつくとそのハンカチを「汚れたハンカチ」だと思ってしまうように、一度自分を不幸だと感じることが起きると、自分はまるで生まれてから死ぬまで一生涯ずっと不幸で楽しいことなんて何もない人生なんだ、と考えてしまいがちである。この二年、居場所選びをすっかり間違えてしまった私は、楽しかった出来事なんて前世のように遠い出来事のように感じていた。それらは、前世じゃなく、確かに今世の私に起こった出来事だった。私の人生にも確かに楽しい瞬間はあった。そのことを認識できたことが、ただただ嬉しかったのだ。ああ生きててよかった、ほんの数分、そんなことを考えながら、胸を振るわせながら自転車を引いて歩いていた。

 

ここ数年の私はてんでだめで、毎日体調が悪く、思考も鬱々として何もできずに寝ているだけの日も多かった。そんな私はいつも過去の自分と比べては、あの頃はあんなに動けたのにどうして、と今の自分を呪っていた。しかし過去は自分を呪うために存在するのではなく、自分を祝福するために存在するものなのだろう。過去はよかったのにどうして、と思うのではなく、過去がよかったのだから私はこれからも大丈夫だ、と思うために。夜空を飽きるほどに見つめていたら自然と朝が来るように、後ろを振り返ることで気づいたら前を向けるときもある。そして私は未来の自分の一瞬の力となるために、おぼつかない今日を懸命に生きるのだ。