偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

努力の方程式

 

フランス語の講読の授業を受けるたびに、先生が訂正する和訳の美しさに毎週純粋に胸を打たれる。私が唸りながらどうにか創り上げたつぎはぎだらせの一枚の布を、さらりと解体して綺麗なパッチワークを完成させるような工程。文が整理されていく過程のみならず、即座に選ぶ日本語まで美しいからものすごい。

先日は、直訳すると「夜になりかけの時間」みたいになる語をさらりと「夜の帳が下りてきて」なんて訳すもんだから、その日本語が咄嗟に降りてくる先生の語彙の海の広さに感動した。

まあでも考えてみれば至極単純なことで、研究者である先生方は、もう何十年も「フランス語を読み、訳す」という行為を繰り返し続けているのだから、私よりずっと容易く訳すのは当然のことだ。私のフランス語歴は、約6年。しかも不真面目な大学院生なので毎日読むなんてことはできていない。私がフランス語を読むために費やした時間なんて、先生方の積み重ねた時間の1000分の1にも及ばないのだろう。

ここで「読むために費やした」と書いたのは、読む/書く/聴く/話すはそれぞれ異なる時間として蓄積されていくと考えているからだ。その話は今回はここではしないけれど。

 

先ほどさらっと「何十年」という言葉を使ったが、何十年も一つのテーマに齧り付き、外国語を通して学び考え続けることって、物凄いことだと思う。

私は飽き性な上に比較的行動的な人間なので、「研究をつづける」という行為はできないなと去年のうちに見切りをつけ、就活をした。何か一つのことを飽きずに何十年も続けるって、わたしにとっては本当に信じられないことだ。

 

ダンスのレッスンに行く中でも、似たようなことをよく感じる。先生の動きを真似しているはずなのに、なんか身体の動線が違う。なんか視線の位置が違う。なんか呼吸のタイミングが違う。そんな「なんか違う」が重なった私のダンスは、先生のダンスとはまったく異なるものになる。ダンスの振りどころか、小さな基礎の動きですら、手足の形が違う。どんなに真似しようとしても、たどり着けない。

当たり前だ。私のジャズダンス歴はほんの一年強で、先生方とは蓄積されてきた時間が違うからだ。一年とか続ければそこそこ踊れるようになるんじゃないかとか始めた当初は甘い夢を見ていたけれど、現実はそんなことはなく、むしろできない点、気になる点が増えてゆく。変化できない自分に少し嫌気がさしてきて、辞めたくなる瞬間も訪れる。

先生方はきっとそんな瞬間を何度も何度も乗り越えて、それでも小さな基礎から大きな発表までを繰り返し積み重ね続けてきたのだろう。

 


さっきから「続ける」とか「積み重ねる」とか、そういう言葉を繰り返しているけれど、そうした反復の作業こそが努力の真髄なんじゃないかと思う。努力はだいたい、すごく瑣末なことで、泥臭い。その泥臭さに飽きずに向き合いつづけられるかどうか、それが努力ができる人とできない人を、分けている一線なんじゃないだろうか。

 

「努力」って意外と、人によって想像するイメージが異なる言葉な気がする。私は先述したように小さな作業を日々蓄積していくことを「努力」と呼ぶけれど、人によっては何か無謀にも見える挑戦をするとか、何かに対してすべての時間を費やして短期間でがむじゃらに頑張るとか、そういうものをイメージする人も多いんじゃないかと思う。

で、後者のような「努力」ができる人の「努力論」が蔓延して、後者のようなことを苦手とする人がなんとなく罪悪感を背負ってしまうような、そんな社会になっているような気がする。

でも、じゃあ後者が苦手な人が「努力」をしていないかというと全くそんなことはなくて、何かについてずっと思索を繰り返しているとか、美的感覚を静かに模索しているとか、社会問題に声を上げ続けるとか、そういう「小さく続けること」も「努力」なんじゃないかと思う。

 


先述したけどわたしは飽き性で、努力もどちらかというと短期間でガーっと何かを成し遂げる方が得意なタイプだ(ゆえに短期間でガーっと書いてたまたまいい感じになった卒論で調子に乗ってうっかり大学院に進学してしまい、現在とても苦労している)。そういう話は就活ではよくしたし、もしかしたら「社会」を生きていく上では便利に働くことも多いのかもしれないけれど、それでも、だからこそ私はずっと、泥臭い小さな作業を繰り返せる人に憧憬の念を抱きつづけるのだろう。

 


もうすぐ25歳になる。

35歳まで、ダンスを続けていたらいいな。フランス語を捨てていなければいいな。いま好きな人たちを好きでいられたらいいな。どんな変化が起きるかわからないけれど、一つの信念を強く持って、思索を続けられる人であれたらいいな。それらの「いいな」を「いいな」で終わらせずに済むように、努力ができるようになる努力をつづけることを、25歳の抱負にする予定だ。