偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

光は最後にのこる

 

旧約聖書で神は最初に光あれと言ったけれど、わたしにとって光はいつも最後に残るものだ。会話の内容を忘れても、顔貌が朧げになっても、光だけはいつまでもまぶたの裏に焼き付いて、離れてくれない。

 

最近しょっちゅうキンプリのライブを思い出す(厳密に言うと次のライブに行きたいな〜と思いを馳せているだけなのだが)。前にもどこかで書いたかもしれないけれど、わたしはこの前たまたまアリーナの花道近くの席で参加することができて、結構な距離でメンバーたちを見ることができたのだった。ライブの後にApple Musicでセトリをプレイリストにしたから、曲を聴いているとライブの様子を思い出すことができるのだけど、彼らのパフォーマンスや発言や表情それ自体というよりは、ドームを貫く閃光とか、衣装に施されたスパンコールとか、メンバーのつけていたピアスの一瞬の煌めきとか、そういうのばかりがまぶたの奥を埋め尽くす。

 

思えばaikoのライブもそうで、コロナ前に2回花道前でzepp tokyoでの参加できたことがあったのだけど、その2回もずっと、aikoの指輪ばかり見ていた気がする。目を合わせてくれたこととか、手を伸ばしてくれたこととか(コロナ前のaikoはライブで本当にファンと触れ合っていた)、思い出すべきことは他にたくさんあるはずなのに、なぜか私の脳裏を真っ先によぎるのは、aikoの指を覆うシルバーリングたちの眩しさだ。

 

さらには実際に関わりのある人についてもそうで、私はいつも他人の身につけている光ばかりを目で追っている気がする。ネックレス、リング、ブレスレット。

むしろその顔を思い出そうとするときに写真を見るときのように明確に描けることは少なく、印象派のようにぼんやりと、あるいはキュビズムのように多面的に、その顔は顔ではない何かとして現れる。

それでもその人の身につけている光が、私にとってその人がその人である証明となる。

 

人でなくても光ばかりを目で追っているかもしれない。水面の上を踊るように反射する陽光、豊かに茂った葉の隙間から柔らかく差し込む木漏れ日、駅の電光掲示板、エスニック料理屋さんのランタン、眠れない夜に意味もなくスクロールするスマホの画面。地域猫として愛される猫ちゃんのビー玉のような瞳。

 

瞳。人間の瞳を眺めるのも好きだ。アクセサリーとして身につけるものではなく、人間が元から持っているその人だけの光るもの。日本社会では目の前の相手をじろじろと眺めることはあまり相応しくないとされるものの、私は人の虹彩を見るのがとても好きで、話すときについ真っ直ぐに見つめてしまう癖がある。

そして私は自分の瞳の色も結構気に入っている。少し赤みがかったブラウン。先日生まれて初めてカラコンを購入したのだけど、装着してみて「なんか違う」と思ったのは、きっとこの私が私らしさと定義する光が失われてしまったからなのだろう。コンタクトの上にレースのように繊細に描かれた明るい茶色の模様はとても可愛いけれど、これは私の光じゃない、と思ったのだ。今日も久しぶりに付けたけれど、途中で外してクリアレンズに切り替えた。今後も付ける機会はあまりないだろう。カラコンはフリマアプリに出せないから勿体無くて少しだけ悔しい。

 

私が他人の光ばかりを覚えているように、誰かが私のことを思い出すとき、それが私の光だったらいいなと思う。私の瞳の明るさとか、4つのピアスとか、重ね付けしてる指輪とか、コインモチーフのネックレスとか、アイシャドウのラメとか。私の顔なんてどうでもいい。自分の顔はそんなに好きじゃないし。

それより私の光を覚えていて。『ノルウェイの森』の直子みたいなことを言うけれど、私のことより私の光を覚えていて。そんな寂しい祈りを込めながら、私は日常のアクセサリーやメイクを選んでいるのかもしれない。

 

私にとっての光はこういうイメージのものだから、世の中で人気の「光」がテーマのJPOPとかとは少し相容れないところがある。でも最近読んだ松浦理英子の『ヒカリ文集』は、まさにそんな光の話だった。ある劇団で超モテていた「ヒカリ」という名を持つ女性が、あるときを境にぱったりと姿を消すものの、彼女との思い出は劇団員たちの中にそれぞれの「光」として、お守りのように残りつづけているという物語だ。アクセサリーやメイクといった具体的なイメージとしての光の描写は少ないが、それでも観念としての光は、私のものととても近いように感じた。

 

どうしてこんなに光ばかりを追ってしまうのだろう。寂しいからか、不安だからか、とてつもなく怖がりだからか。いつになったら現実をフラットに見つめられるようになるのだろうと思うけれど、もしかして死ぬ直前にも、私の脳裏をよぎるのは、人生の走馬灯などではなく、私が人生で出逢った光の集大成のようなものなのかもしれない。それでその光に吸い込まれるように終幕を迎えるのかもしれない。そう思うと、常に胸から離れない死への恐怖も少し和らぐ気がする。そうだったらいいなあ。

光よ、最後にのこれ。

 


余談だが、私はヨドバ◯等の電化製品屋さんがめちゃめちゃ好きだ。なぜならそこには新しい光が溢れているから。こんなに光を増やしてくれるなんて、テクノロジー最高!現代社会ありがとう!と、常々思っている。今度だれかヨドバ◯でデートしませんか?