偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

就職活動と「あきらめること」

 

今年の「群像」二月号だったか、くどうれいんの「 あきらめること」という短編をよく覚えている。その中で、 妻を持つ佐原という男と、主人公である「わたし」は、 二人で逃避行に出かけながらこんな会話をぽつりと交わす。

 

「灯さん、荷物を少なくするコツはひとつだけあります。 あきらめることです」
「あきらめること」
「うん、もしこうなったらどうしよう、 万が一これが足りなくなったら、 もしここでこんなことが起きたときのために。 そうやって増えるんです。だから、 何が起きちゃってもいいやってあきらめると、 あきらめた数だけ荷物は減ります」
講談社「群像」2月号 p.35-36)


私はここ数年、「あきらめること」 を少しずつ覚えてきていると思う。未だに下手だけど、 以前よりは格段に「あきらめること」 ができるようになってきている。この台詞に則って喩えるならば、 荷物を増やすことはやめられないのだけど、 少しずつ荷物を下ろすことには慣れてきた、という感じ。

いつだって不安だし万端に準備はしていたいから、 リュックは常にパンパンで、 肩を凝らせたまま一生懸命に旅をするのだけれど、 旅をしながら少しずつ荷物を路上に捨てたり、誰かに分けたり、 目的地を変更したり、 そうすることでだいぶ楽に旅をできるようになってきた。たぶん。


勿論やれるところまではやる。がむしゃらにがんばる。でも、 努力!友情!勝利!なんて言葉はやっぱり幻想で、 どんなに努力したところで友情を失うこともあれば、 ましてや勝利なんて得られないことの方が多い。何をもって「 勝利」と定義するか、にもよるけれど。 努力が裏切らないのはそれが自分vs無機物or概念である場合のみで、その対象に他人が絡んできてしまうと、 それは本当に努力の範疇でどうにかできるものではなくなってしまう。大きな戦争から小さな隣人との関係まで、他人だけは絶対に、 何を持っても変えることができない。

このことに真の意味で気がつくまでに、 私は四半世紀近くがかかった。気がついてからも、 そのことがひたすらに悲しい。


就活は企業との戦いというよりも、圧倒的に人との戦いだった。 当然だが企業という組織の中にいる人との戦いだった。

「 あんな仕事がしたい」「こんな人と働きたい」 私のリュックの中で膨らんでいた夢は、 ボリュームのある綿菓子のようで、 初めの私は重みすら感じずに無限に走りつづけることができた。 リュックの中身を書き出したESを提出して、 唯一努力でなんとかなるテストは対策をして、 面接でもリュックの中身を披露して、 その中身に原石を見つけてもらえて突破できたときは本当に嬉しか った。


なのに、 二回連続で最終近くでそのリュックの中身を丸ごと否定されるという事件が起きた。本当に、丸ごとだった。否定されるというか、 リュックを目の前でひっくり返されて中身を突然踏みつけられるような出来事だった。 私は驚きながらも笑みは絶やさず必死に荷物を詰め直したのだけれど、綿菓子は途端に冷たい石の塊に姿を変え、 体にはリュックの重みばかりが響き、 目の前の道は霧なのか涙なのかわからない薄膜でぼやけ、 私は動けなくなった。そこからは、 リュックの中身すら判別できなくなり、 書類も面接も圧倒的に通過率が悪くなった。 同じような年齢や性別の面接官に同様の質問をされるだけで頭が真っ白になった。こんな風になるならば、 最初からリュックに夢など詰めなければよかった、と後悔した。


最初から、 即座に他人に変身できるようなマントだけポシェットに詰めて、 身軽な格好で旅に出ればよかったのだ。「あきらめること」で、 佐原さんが言っていたみたいに。


それでも少しだけ荷物を整理して予想外の方向へ進んでみたら、 私のリュックの中身を見初めてくれる人々とも出会えた。 今度はあの時とは反対で、 リュックの中身すべてに興味を持ってもらえて、 残った靴跡を撫でてもらうような感じだった。 その人たちと出会えたのは本当に私の気まぐれがもたらした結果だったので、やっぱり努力なんかより運が「勝利」 をもたらすのだと思った。


四半世紀近く生きて、ようやく荷物を途中で整理したり、 道を変えてみたり、 そういうことに対する抵抗が減ってきたような気がする(この道は、あくまでも「自分で定めた道」を指している)。 就活だけではなくて、 人間関係における執着心や愛憎のようなものも少しずつ手放せるようになってきているような、気がする。気だけしている。


ここからまだ生きられるとして、 私はもっともっと荷物を捨てたり、 道を変えたりする術を少しずつ身につけていくのだろうか。 いつかはボロボロのリュックすらも手放して、 ポシェットすらも身につけず、本当に身一つですべてを「あきらめ」られるようになるのだろうか。
なってほしいと思う。でも、なってほしくないとも思う。それはとても幸福なことで、同時にとても寂しいことだと思うから。

それを寂しいと思うのは、私が私であるからだろうか。 佐原さんは、「あきらめること」 それ自体を寂しいと思ったことはあったのだろうか。これを読んでくださっている、皆さんはどうですか。


私は生きていくことは、少しずつ何かを諦めつづけていくことで、 何かを手放していくことで、 その際に生じる痛みや寂しさをも自分のものとして受容し、 自分の中に様々な色を増やしていくことなのかもしれないと思っている。幸福は、黄色とかピンクとかそんな鮮やかな色じゃなくて、 青とか燕脂とか様々なら色が溶け合った殆ど黒に近いような色なのかもしれないと。そう思ってしまうのも、 私が私であるからなのだろうか。