偏愛記

好きな人や物が多すぎて、見放されてしまわないために綴る愛。好きな歌とか、読んだ本とか、推しとか。

ライブがやっぱり好きな話

 

好きなアーティストのライブって、みんなどれくらい行くものなんだろうか。あんまり平均値を聞かないからわからない。けど、わたしは結構ライブに行っている人生を歩んでいるのではないかと思う。

高校時代は椎名林檎SCANDALPerfume、フェス、大学に入ってからはaikoをメインにライブに行っていた。留学は本当に楽しかったけれど、ライブに行けないことだけは辛かった。去年はaikoのライブに4回行きながらも結婚報告ライブは逃し少し病んだ。今年は先日King&Princeのツアーに初めて訪れて、ギラッッッギラの装飾とファンサというとんでもないものを一身に浴び、翌日からは「ライブに戻りたい…」を口癖に屍のように暮らしている。無事にジャニーズファンとしての洗練を浴びた次第だ。

 


わたしの場合、基本的に後ろ向きで生へのモチベが薄いタイプなので、3ヶ月に1回くらいのスパンでライブを入れてライブ特有のあのバチバチのエネルギーでチャージをしないと身が持たない。

現にいまも「夏にaikoのFCライブやる〜!それまではちょこちょこ充電しながら省エネでなんとか生きよ〜!」と思いながら日々を過ごしている。iphoneで言うなら、基本的には常に20%以下の電源のイラストが赤い状態で日々を過ごしていて、日常で充電できる範囲は多くて40%くらいまでしかなくて、ライブに行って初めて満タンまで充電できるという次第である。

電気をもらうのはライブだけじゃなくて、小説とか、映画とか、展覧会とか、ダンスとか、美味しいご飯とか、「人の作る芸術的な何か」に生かされている、と日々思う。正直に言うと人間単体はあまり得意じゃなく、エネルギーを消費する原因となる(人が持つオーラのようなものがだめで、コロナ禍を経てその傾向は強まり、最近はちょっと人混みに行くだけで死にそうにぐったりするようになった)。でもだからこそ、仲良くしてくれる人たちのことはめっっっちゃ好きだし、本当に感謝しています。

 

それにしても、なんでこんなにライブが好きなんだろうか。理由としては二つあるように思われる。

 


①二次元にも近い存在が「等身大」に変化する瞬間のあの感覚が何度味わっても新鮮に驚けるから

 

これは本当にそう。高校時代に行ったSCANDALのライブでたまたまベースのTOMOMIの目の前の場所を確保できたときに、「相手が自分と同じサイズで存在していること」に心底感動した。

もちろん人間だってわかっているし、人として好きでいるのだけど、それでも本当に自分と同じ等身大のサイズ感をもって目の前に現れたときの衝撃は計り知れない。あ、実在したんだ。と何回でも思う。これはもうライブ会場という空間にいる限り、泉が湧き出るように何回でも胸を打つ。

aikoのライブでは2回花道前、キンプリのライブでは1回アリーナを経験したことがあるのだけど、aikoの指輪の数とか汗の滴りとか平野紫耀のピアスの煌めきとか笑ったときの頬の皺とか、そういうのを目視できるレベルの距離で、その人たちが大きな熱量を込めてパフォーマンスする現場を眺める瞬間の「生」感、「わたしとあなたの人生が今ここで交錯した」「こんなに楽しいなんて確かにわたしは生きている」という感覚、なるほど確かに"LIVE"だ…などと考えるわけである。

 


「でもライブって席が遠い場合もあるじゃん?」と思う人もいるだろう。それはまあたしかに残念ではあるんだけど、「声がCDと違う!」というだけでもうこちらはなんぼでも感動できるんです。それが「実在」の証になるから。ライブアレンジとかされていたらもうそれだけで泣いてしまう。

実際に、椎名林檎のライブとかは近くで参加できたことはないです。まあでも林檎のライブはライブというよりコンサートという感じだし、MCとかもほぼないから、遠い席で静かに耳を研ぎ澄ませるくらいがちょうどいいのかもしれん、と思う。

aikoとかキンプリとかは、割と距離を大事にするタイプだけど、どんなに遠い席にいても絶対に「ちゃんと顔見えてるよ!」と言ったり、手を振ったりすることを忘れないから、たとえ遠い席でも先に述べた「生が交わっている」"LIVE"の感覚をしっかり味わえる。ちなみに先日のキンプリは一人一人がクレーン?みたいのでドームの三回席ぎりぎりのとこまで上がってて凄かった。

テレビとか雑誌とかCDとかでしか繋がれない人を、人として等身大で見つめて、一瞬でも人生が交錯する感覚を味わえる。ライブ特有の照明や音響がその特別感を加速させる。生きている、という確信を得られる。それが、わたしにとってのライブの醍醐味なんだと思う。本当にライブに行くたびに飽きずにこの感覚を味わえるから物凄い。

 


②自分の軸を再認識できる場所であるから

 

わたしの尊敬する人物の特徴として、「人を励ますことを自分の中心に据えている人」が挙げられる。ライブはアーティストたちのそうした考えを行動として実感できる場所だ。わたしがライブに行ったことのあるアーティストは限られるけど、わたしが好きな人たちは、「ライブは自分にとっても特別。今日のことを忘れないで、辛いときがあったら思い出してほしい。そして一緒に年を重ねていきたい」みたいなことを毎回言ってくれる。そうしたことを何千人、何万人もの前で発言するって、並大抵の覚悟じゃできないことだと思う。

わたしは基本性悪説を信じていて、人間は自分以外はどうでもいいと思う生き物なんだろう、と考えているので、アーティストからは顔も知らない無数の「他人」であるファンたちの「辛いとき」を踏まえた上で自分も今楽しいから(="LIVE"を味わっているから)どうかこの瞬間を忘れないで、といえるその想像力の強さというか、魂のまっすぐさというか、そういうものにいつも新鮮に驚いて、そして泣きそうになってしまう。残酷なこともたくさん起きる世界だけど、この人たちが生きてる世界なら大丈夫だ、と思える。

たとえそれが単なる挨拶にすぎない、と言う人がいたとしても、挨拶だとしても無数のファンが集まる場でそういうことを言えることの格好良さを讃えているのだ、と返したい。

嘘だとか本当だとかはどうでもよくて、人が脆い存在であること、苦しい瞬間は必ず訪れること、そうした"LIVE"以外の瞬間を前提にして、"LIVE"の特別さを際立たせ、あなたには元気でいてほしいと伝えてくれて、それを相手に本当だと思わせてくれる、その行動をわたしはうつくしいと思う。

ライブに行くたびに、人を励ます、簡単ではないことを何千人、何万人の規模でドカン!とやってのける現場に居合わせられることの幸せを噛み締める。そして自分がそういう人への憧れから逃れられないことと、現状の自分へのちょっぴりの不甲斐なさを味わう。

 


というように、わたしの軸はやっぱり「人を励ます」ことにあるんだな〜と思う。そういえばめっちゃ好きな石原さとみも、「人を励ませる仕事ならなんでもよかった。一番できそうだったから女優を選んだ」みたいなことを言っていた気がする。好きな作家も口を揃えて「不幸な人に寄り添う小説が書きたい」みたいなことを言っているので、わたしは本当に「見ず知らずの他人の苦しみを考えて力になりたいと思う人」に心惹かれるのだな〜とおもう。

 


現状の自分の話をすると、いまは就活をしているのだけど、「人を励ましたい」という思いは「ビジネス」とかなり相性が悪い(あくまでもわたしの体感です)。「ビジネス」は、様々な犠牲に目を瞑った上で成立しているものが多いから。その人たちの力になりたいとか言い出したら、「ビジネス」は成立しなくなってしまう。「お気持ち」などと揶揄されそうだが、わたしは利益よりもこの世界に生きるすべての人々(主語でか)の感情を大切にしたいと思ってしまう。誰かを犠牲にした上で成り立つビジネスなんてダサいから滅べよ、くらいのことを思うときもある。ちょっと中2を引きずっているのはわかっている。それでもやっぱり、炎上してもスルーしてむしろマーケティングにしてるような企業を見ると、心底落ち込む。

 

相当ビジネスのセンスがあればその想いも仕事に内包していくことは可能なんだろうけど、わたしにそこまでのビジネス的な能力はないし、たぶん体力的に仕事するだけでいっぱいいっぱいだろうし、ビジネスセンスは今後も育っていくものではないんだろうな、という直感がある(わたしは自分ができることとできないことを直感的に見極めることだけは長けており、ゆえに今までも自分が得意なことを伸ばせるルートを選択してきていて、苦手なものの克服の仕方とかわからないので、ここにきて人生最大のピンチという感じがする)。たぶん物の見方がマジで感覚とか感情とかそういう、語源がラテン語の"sentire"に由来する系に偏っているんだと思う(突然の言語オタク)。自分でも偏りすぎて結構困っているのだが、直したいと思って直せるものでもない。

まあライブもビジネスではあるんだけど、そのライブを運営する側になるような経営センスは皆無だし、でも自分が凡人でアーティストとかになれないことは知ってるし、所謂「正当」なルートを歩んできてしまったから道を外れる勇気もないし、もう本当に詰んでいる。詰んでいるのだけど、詰んでいるな〜と思いつつ、とりあえず夏のaikoのライブまで電池がゼロにならないように、工夫しながら就活と修論を進めていけたらいいなと思っている。